永射保の経歴と年度別成績を徹底解説|左殺しの投球術、優勝3度と死因・現在
永射保(ながい・たもつ)は、独特の左サイドハンドから繰り出す投球で強打者を封じ、「左殺し」と呼ばれた元プロ野球投手です。西武ライオンズの黄金期を支え、広岡達朗監督時代の1982年、1983年、1985年にリーグ優勝を経験。日本野球機構(NPB)の公式記録には、通算606試合登板、44勝37敗21セーブという実績が残っています。
2017年6月24日に63歳で亡くなった永射保ですが、その投球術や救援投手としての役割は、現在のプロ野球を考えるうえでも興味深いものです。この記事では、経歴、年度別成績、左打者に強かった理由、西武時代の功績、死因や引退後の活動まで、NPB公式記録と報道をもとに詳しく整理します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 経歴:1972年に広島東洋カープでプロ入りし、太平洋クラブ・クラウンライター・西武、大洋、ダイエーでプレーした左腕投手。
- 実績:通算606試合登板、44勝37敗21セーブ、防御率4.11。1982年、1983年、1985年の西武のリーグ優勝に貢献。
- 投球術:左のサイドハンドを武器に、門田博光やレロン・リーら左の強打者を抑え、「左殺し」として知られた。
- 現在:2017年6月24日にがんのため63歳で死去。引退後は野球指導や飲食店の経営などにも携わった。
【経歴を解説】永射保はどんなプロ野球選手だったのか
永射保は1953年10月3日、鹿児島県川辺郡大浦町(現在の南さつま市)に生まれました。指宿商業高校から1971年のドラフト会議で広島東洋カープに3位指名され、翌1972年にプロ入りしています。
身長172センチ、左投左打。現在の野球界では珍しい存在ではない左投手ですが、永射の特徴は投球フォームにありました。オーバースローから腕を下げ、横方向から投げ込む独特のフォームを磨き上げたのです。
プロ入り当初の広島時代は、投手としての立ち位置を確立するまでに苦労しました。1974年に太平洋クラブ・ライオンズへ移籍したことも、キャリアの大きな転機となります。その後、クラウンライター・ライオンズを経て西武ライオンズに在籍し、主に救援投手として実績を積みました。
1977年には49試合に登板して9勝10敗6セーブ、防御率3.33を記録。救援だけでなく、先発も含めて多くのイニングを任された時期でした。永射は当初からワンポイントリリーフ専門の投手だったわけではなく、長いシーズンを投げ抜く経験を重ねながら、自分の武器を確立していった選手です。
1979年から1984年までは6年連続で40試合以上に登板しました。西武の投手陣に欠かせない存在となり、左の強打者を迎えた場面で起用される機会も増加。1987年には横浜大洋ホエールズ、1989年には福岡ダイエーホークスへ移籍し、1990年限りで現役を引退しました。
なお、永射保の経歴には陸上自衛隊に関する逸話もあります。人物紹介や野球史の資料では、現役時代のオフシーズンに陸上自衛隊でアルバイトをした経験が伝えられています。長年、自衛官として勤務した経歴とは異なり、プロ野球選手時代のエピソードとして理解するのが適切です。
また、一部の人物紹介資料では、体毛が濃かったことに由来する「毛ガニ」というあだ名も紹介されています。野球ファンの間で広く知られた異名は、外見にまつわるこの呼び名以上に、左打者を封じる投球から生まれた「左殺し」でした。

【NPB公式成績】通算606試合と年度別成績を一覧で確認
永射保の実績を正確に把握するには、NPB公式サイトの「個人年度別成績」を見るのが基本です。通算登板数は606試合、通算勝利数は44、敗戦数は37、セーブ数は21、防御率は4.11。救援投手として長く活躍したことが、これらの数字から読み取れます。
以下は、NPB公式記録に掲載されている年度別投手成績です。勝敗は「勝利-敗戦」、セーブは公式記録に掲載された数値を示しています。1975年は年度別投手成績に掲載がないため省略しました。
| 年度 | 所属球団 | 登板 | 勝敗 | セーブ | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1972 | 広島東洋 | 1 | 0-0 | — | — |
| 1973 | 広島東洋 | 20 | 0-0 | — | 5.29 |
| 1974 | 太平洋 | 14 | 0-0 | 0 | 8.18 |
| 1976 | 太平洋 | 45 | 3-4 | 1 | 4.11 |
| 1977 | クラウン | 49 | 9-10 | 6 | 3.33 |
| 1978 | クラウン | 14 | 0-3 | 1 | 3.27 |
| 1979 | 西武 | 63 | 5-3 | 1 | 4.12 |
| 1980 | 西武 | 56 | 6-3 | 1 | 4.43 |
| 1981 | 西武 | 61 | 6-3 | 4 | 3.14 |
| 1982 | 西武 | 42 | 3-4 | 4 | 5.93 |
| 1983 | 西武 | 42 | 2-1 | 0 | 2.41 |
| 1984 | 西武 | 48 | 6-4 | 1 | 4.11 |
| 1985 | 西武 | 33 | 0-1 | 0 | 6.90 |
| 1986 | 西武 | 5 | 0-0 | 0 | 10.80 |
| 1987 | 横浜大洋 | 39 | 0-0 | 1 | 5.88 |
| 1988 | 横浜大洋 | 27 | 2-0 | 0 | 4.26 |
| 1989 | 福岡ダイエー | 39 | 2-0 | 1 | 3.07 |
| 1990 | 福岡ダイエー | 8 | 0-1 | 0 | 3.86 |
| 通算 | 606 | 44-37 | 21 | 4.11 |
出典:日本野球機構(NPB)公式サイト「永射 保 個人年度別成績」。1972年は投球回が1回で自責点1、1973年は16回2/3で防御率5.29。表中の「—」は、当該年度の公式掲載値に数値がないことを示します。
年度別成績で目を引くのは、1979年の63試合、1980年の56試合、1981年の61試合という登板数です。3年連続で60試合前後に登板し、1984年にも48試合に登板しました。永射が一時的に注目された投手ではなく、継続してチームの戦力になっていたことが分かります。
一方、1983年には42試合に登板し、防御率2.41を記録しました。1989年のダイエー時代も39試合で防御率3.07と安定しています。通算防御率4.11だけを見ると突出した数字には映らないかもしれませんが、異なる球団で長く登板機会を得て、打者との相性を生かす役割を担った点に永射の価値があります。
なお、登板数は救援投手の貢献を評価する重要な指標ですが、それだけで投球内容のすべてが分かるわけではありません。防御率、登板した場面、相手打者との相性などを併せて見ることで、永射の役割をより具体的に理解できます。
【左殺しの正体】サイドハンドとアンダースローを使い分けた投球術
永射保を語る際に欠かせないのが、「左殺し」という異名です。左打者に対して強さを発揮した理由は、単に左投手だったからではありません。腕を下げた独特の投球フォームと、打者のタイミングを外す投球術が組み合わさっていたことが大きな特徴でした。
永射の投げ方は、報道では主に左のサイドハンドと表現されています。一方、腕の位置が低く、下からすくい上げるように見えることから、アンダースローと紹介されることもあります。厳密には投球腕の角度に違いがありますが、永射の場合は、一般的なオーバースローとは大きく異なる低い腕の位置が特徴でした。
フォームを変えるきっかけとして伝えられているのが、ヤクルトの左腕・安田猛の投球です。安田が王貞治を抑える姿を参考に、永射も速球一辺倒ではなく、腕の角度やボールの遅さを武器にする方向へと転換しました。さらに、阪急の名投手・山田久志のフォームも研究し、下半身の使い方やボールを離すタイミングを追求したと、ライブドアニュース掲載の人物記事などで紹介されています。
腕の位置を下げると、打者から見えるボールの出どころや軌道が変わります。左打者にとっては、通常とは異なる角度から球が向かってくるため、見慣れた投手とはタイミングを合わせにくくなります。永射はこの特性を生かし、左打者の内角を意識させながら、カーブやスライダーなどの変化球も交えて打ち取っていきました。
日刊スポーツが2017年の訃報に際して報じた記事では、永射は門田博光やレロン・リーらを抑えた「左キラー」として紹介されています。西武時代にバッテリーを組んだ伊東勤も、左打者が出てくると永射が起用され、カーブやスライダーを武器にしていたと振り返っています。
ただし、「左殺し」という言葉を、左打者だけにしか通用しなかったという意味で捉えるのは正確ではありません。NPB公式記録を見ると、永射は1977年に199回2/3、1979年には106回2/3を投げています。現代のワンポイント専門投手というイメージだけでは説明できない、幅広い役割を担っていたことも押さえておきたい点です。

【西武ライオンズと広岡達朗】1982年・1983年・1985年の優勝を支えた左腕
永射保の名前が特に強く記憶されているのは、西武ライオンズの黄金期です。埼玉西武ライオンズの球団史によると、広岡達朗監督が率いた西武は1982年、1983年、1985年にパ・リーグを制しました。永射はこの3度のリーグ優勝を経験した投手の一人です。
1982年は42試合に登板し、4セーブを記録。防御率は5.93でした。数字だけを見ると好成績とは言いにくいシーズンですが、チーム全体の優勝と個々の投手の役割は分けて考える必要があります。翌1983年には防御率2.41と改善し、1984年も48試合に登板しました。
1985年も西武はリーグ優勝を果たしています。ただし、日本シリーズでは阪神タイガースが日本一となりました。「1982年、1983年、1985年の3度の優勝」はリーグ優勝を指し、日本シリーズの優勝回数と混同しないことが大切です。
広岡監督時代の西武は、投手力や守備を重視したチームづくりでも知られています。そうしたチームにおいて、永射のように特定の打者に対して強みを発揮する投手は、試合の流れを変えるための重要な選択肢でした。先発投手が相手打線を抑え、終盤に勝ち越しやリードを守る場面では、相手の打順に合わせた投手起用が意味を持ちます。
左打者が続く場面で永射を投入できることは、監督にとって戦術上の利点でした。単に「左投手だから」という理由ではなく、相手打者の特徴を踏まえ、投球フォームや変化球による相性を考慮して起用できたからです。
現在では、救援投手を役割別に配置し、相手打者の左右や得意不得意を踏まえて交代させる戦術は広く定着しています。しかし、永射が活躍した時代は、先発完投を重視する考え方が今よりも強く残っていました。左打者を抑える専門性を武器に、長期にわたって起用され続けたことは、永射の功績を考えるうえで重要な背景です。
【現在と死因】2017年6月24日に63歳で死去
永射保は2017年6月24日、がんのため福岡県久留米市内の病院で亡くなりました。63歳でした。日刊スポーツやデイリースポーツなどの報道が、死去の日付、年齢、死因を伝えています。
死因について公表された情報は「がん」です。報道ではがんの部位は公表されていません。肝臓がんなど、具体的な病名を断定する情報には注意が必要です。
引退後の永射は、野球から完全に離れたわけではありません。日刊スポーツの報道によれば、球団職員を務めた後、福岡県内で飲食店を営んでいました。また、中国プロ野球や少年野球の指導にも携わったと報じられています。現役時代に培った投球経験を、指導者として次の世代へ伝える活動も行っていました。
2026年現在、永射保はすでに故人です。現役引退後の近況を調べる際には、2017年の訃報と、その後に掲載された過去の経歴記事を区別する必要があります。検索結果に「現在」と表示されていても、それが最近の活動を意味するとは限りません。
永射の死去を伝えた報道では、通算606試合登板という数字とともに、左打者を封じる中継ぎ左腕の先駆者としての評価が取り上げられました。華やかな勝利数やセーブ数だけでは語りきれない、チームの勝利を支える仕事を長く続けた投手だったことが、その訃報からも浮かび上がります。

【プロの結論】永射保の功績は通算成績だけでは測れない
永射保のキャリアを評価する際、最初に確認すべき数字は通算606試合登板です。44勝37敗21セーブ、防御率4.11という公式記録は、19年にわたるプロ野球生活の全体像を示しています。しかし、永射の特徴を理解するには、勝敗や防御率に加えて、投手としてどのように起用されたのかを考える必要があります。
救援投手の価値は、必ずしも勝利数やセーブ数に比例しません。相手の中軸打者を迎えた場面、左打者が続く打順、試合の流れを変えたい局面など、起用された状況そのものが重要です。永射は、低い腕の位置から投げる独特のフォームを磨き、左打者に対する明確な強みを持つことで、チーム内で代替しにくい役割を確立しました。
もう一つのポイントは、専門性と汎用性を両立していたことです。「左殺し」という異名からはワンポイント専門の投手を想像しがちですが、1977年には49試合で199回2/3、1979年には63試合で106回2/3を投げています。先発や複数イニングの救援も含めて登板していた時期があり、キャリア全体を一つの役割だけで説明することはできません。
また、1982年、1983年、1985年のリーグ優勝に貢献した実績は、永射が個人の特技だけで評価された選手ではなかったことを示しています。強みを生かせる場面で起用され、チームの戦術に組み込まれ、長期にわたって登板機会を得たこと。その積み重ねが、通算606試合という数字につながりました。
プロ野球の記録を読む際は、次の3点を意識すると選手の実像をつかみやすくなります。第一に、通算成績でキャリア全体を把握すること。第二に、年度別成績から活躍の時期や役割の変化を追うこと。第三に、当時のチーム事情や戦術と照らし合わせることです。永射保は、この3つの視点を組み合わせることで、数字の奥にある価値が見えてくる投手です。
【永射保】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:永射保の読み方と出身地は? A1:永射保は「ながい・たもつ」と読みます。1953年10月3日に鹿児島県川辺郡大浦町(現在の南さつま市)で生まれ、指宿商業高校から1972年にプロ入りしました。
Q2:永射保の通算成績はどれくらい? A2:NPB公式記録では、通算606試合登板、44勝37敗21セーブ、防御率4.11です。左の救援投手として長く活躍し、1983年には防御率2.41を記録しました。
Q3:「左殺し」と呼ばれた理由は? A3:左のサイドハンドという変則的なフォームと、カーブやスライダーなどを組み合わせた投球で左打者を抑えたためです。門田博光やレロン・リーら、当時の左の強打者に対する起用でも知られています。
Q4:永射保は広岡達朗監督時代に何度優勝した? A4:西武ライオンズは1982年、1983年、1985年にパ・リーグ優勝を果たしました。永射はこの3度のリーグ優勝を経験しています。なお、1985年の日本シリーズは阪神が制しています。
Q5:永射保の死因と亡くなった年齢は? A5:2017年6月24日に、がんのため福岡県久留米市内の病院で亡くなりました。63歳でした。報道ではがんの具体的な部位は公表されていません。
Q6:永射保は陸上自衛官だった? A6:野球史の人物紹介資料では、現役時代のオフシーズンに陸上自衛隊でアルバイトをした逸話が伝えられています。職業として長年、自衛官を務めたという経歴とは区別して理解する必要があります。
Q7:永射保は現在も野球に関わっている? A7:永射保は2017年に亡くなっています。引退後は野球指導や球団職員、福岡県内での飲食店経営などに携わったと報じられています。
まとめ:永射保の記録から見える救援投手の価値
永射保は、独特の左サイドハンドを武器に「左殺し」と呼ばれ、西武ライオンズの黄金期を支えた投手です。NPB公式記録に残る通算606試合登板、44勝37敗21セーブ、防御率4.11は、長期にわたってプロの第一線で起用された実績を物語っています。
1982年、1983年、1985年のリーグ優勝、門田博光やレロン・リーら左の強打者との対戦、そして投球フォームを磨き上げた過程。これらを合わせて見ると、永射の功績は単なる変則左腕の活躍にとどまりません。相手打者の弱点を見極め、専門性をチームの勝利につなげた救援投手の先駆的な存在でした。
2017年に63歳で亡くなった永射保の名前は、年度別成績や当時の報道、球団史を通じて今もたどることができます。選手を評価する際には、通算成績だけでなく、どのような場面で起用され、どのような武器でチームに貢献したのか。その視点を持つことで、永射保という投手の本当の価値が見えてきます。 (出典: 永 射 保(Yahoo!ニュース))